なぜ天皇に?

先の第25代武烈天皇には子供がなく、世継ぎをどうするかが問題になりました。そこで、大和の重鎮である大伴連や物部連らが協議し、仲哀天皇の五世の孫である丹波の国、倭彦王(やまとひこ)を迎えようとしましたが、倭彦王は迎えの兵士をみて恐れをなし山中に隠れてしまった。

 

   次に応神天皇の五世の孫である大迹の王を越の国の三国へ天皇の印旗と神輿を備えて迎えに出しました。 大迹の王はゆったりと平常通り落ち着いて床几に腰かけ、侍臣を整列させて既に天皇の風格があったといいます。

 このとき、大迹の王は心中では疑いを持っていたので直ぐには承知せず、飼首荒籠(か河内馬わちのうまかいのおびとあらこ)に使いをだし、大臣、大連らの本意を確かめてから決心しました。

 

決心に渡来人の存在

継体天皇が即位を決断した理由の一つに、国内にネットワークを持っていた荒籠の情報が大きく働いたことが挙げられます。

馬を使った情報の情報力は今までにないような情報量だったでしょう。

継体天皇が馬に目を付けたのは先見性があったといえます。、


樟葉で即位のなぜ

迹の王は樟葉の宮で第26代継体天皇に即位しました。

それは飼首荒籠(か河内馬わちのうまかいのおびとあらこ)による渡来人のネットワークの力が大きく働きました。

それでは継体天皇は何故、樟葉で即位したのか。

旧ヤマト勢力の抵抗にあったという説もありますが、継体天皇にはもっと深い読みがあったのではないでしょうか。

 

当時の朝鮮半島は百済系と新羅系の関係がギクシャクしたものでした。

影響を与えた渡来人は百済系か新羅系なのでしょうか。

樟葉は三川合流の重要地点です。

後の聖徳太子が建立した四天王寺の瓦は樟葉でも焼かれ、百済様式の瓦です。讃良は百済系渡来人の根拠地ですが、古墳時代からその影響があって百済王家へとつながっていったかもしれません。

今も残されている8世紀の百済寺や百済王神社がこの地を突然に百済系の根拠地にしたわけでないことを物語っている。

ヤマト政権を支えた馬

古墳時代の讃良は馬を飼う初期牧場で、古代において最も華やかな時代でした。日本書紀にも記述が多く、馬は軍事の要になっていき、渡来人や渡来系の人々が住む先進的な地位であったことは間違いありません。

    ※讃良は大阪府四条畷を中心にして寝屋川の一部と東大東市の一部を含めた地域に使われた地名で、明治時代まで使われましたが現在はありません。

本ページの継体大王に関する資料及び記述は平成25年7月7日郷土歴史研究会で大阪府四条畷市立歴史民俗資料館の講義の際に頂いた資料から抜粋しております。