継体大王ゆかりの文化とともに1500年「蓬莱祀」「堂の餅」など、地域の人々の心をつなぐ要でもある伝統文化を護り続けています。
岡太神社は、越前市粟田部町19字大山3番地にあり、延喜式神明帳では旧今立郡十四座中では最も古い社である。
当神社は 建角身神 大己貴命 国狭槌尊 の三柱を勧進し、当初「岡太の宮」と称し21代雄略天皇(456~479)以前に鎮座されたといわれている。
男大迹の王(継体大王)は度重なる氾濫により民を苦しめてきた三大河 川の九頭竜川、足羽川、日野川を拓き、粟や麻などの栽培を奨励し食住環境の改善に力を注いだと伝わっている。
養老2年(718年)正月に「泰澄大師」が巡錫(僧の行脚)の折、当地に来て仏像を勧進して神仏同体の行を納め、社名を
「白山三社大権現神社」として崇めることとされた。
明治五年(1874年)に維新政府の神仏分離令により社名を県社岡太神社と改め現在に至るも、その間明治6年(1873)
の大火により消失、苦難の末、明治35年(1902)再建なる。
建角身命(たてつのみこと)
国狭槌尊(くにさっちのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
継体天皇 相殿に継体天皇を祀る。
永平寺の二本松古墳から出土した日本最古級の王冠。写真:金銀でメッキを施し復元した王冠。。
写真:継体大王即位1500周年冊子 公式記録より。
継体大王が潜流当時の越の国は、日本海に面し、山陰、九州、朝鮮半島との交流が盛んで極めて高いレベルの技術や文
化を有していたことが、二本松古墳から出土した金や銀でメッキした冠を始めとし、、県内各地で出土した銅鐸や土器、鉄
器類から窺えます。また、当時の越の国は全国屈指の米の生産力を有していたと考えられています。
さらに、九頭竜川流域に造営された越しの大首長の古墳郡からも、強大な権力を持った首長が当時の越の国を納めていたことが窺える。このように、越の国は国内はもとより大陸との交流により、高い文化や技術水準を誇っており、全国屈指の国力を有していたと考えられています。
越の国における大王の業績は多くの伝説となって福井県内各地に残っています。
花筺の薄墨桜伝説。
王は去り際に、岡太神社の桜を、形見とするよう言い残したと伝わる桜。
笏谷石伝説。
足羽山の笏谷石を産業と
して活用するよう奨励した
ことが起こりとなった。
(写真:粟田部の蘇我倉山田石川麻呂の廟ー越前市指定文化財)
上河内の薄墨桜伝説。
河和田には3人の皇女が住んでいたと伝わり、大王がお手植えの桜の桜とされる薄墨桜があります。
越前漆器伝説。
大王に献上した漆器にことのほか喜びになられ産業とするよう奨励されたとする伝説。
「蓬莱祀」:国選択無形民俗文化財 写真は「蓬莱祀」巡行
旧記によると、この神事は749年頃から始められて、天正元年(1573)年まで続けられて暫く中断、天正17年(1589)頃か
ら再興し、藩政時代の文政11年(1828)には神事の厳しさから莱祀騒動まで引き起こしたといわれている 以後はますます厳しくなり毎年福井藩から役人4名の礼服着用の警護人まで派遣されるというものであったが、現在 は氏子によって盛大に町内引き回しが行われている。
※天正の出来事 ⇒ 朝倉義景自害 本能寺の変 秀吉天下を取る
秋祭り時に継体天皇が、大和の「磐余 玉穂の宮に遷都されたこ日を祝って堂の餅を供する神事が今も連綿と受け継がれている。
堂の餅:市越前市無形民俗文化財
写真:平成27年度 堂の餅を担った当番者。
古来からの神事の一つとして、毎年正月14日岡太神社拝殿前、本町
の上の辻、本町下の辻の3ヶ所で行っていたが、天保10年(1840年)より、岡太神社拝殿前1ヶ所に併合し、1月15日に行われるようになった。
戦後は厄年の男女が当番で、中心に杉柱を立て、松・竹・わらなどで裾を巻き、土台を作り、正月に使用済みの松飾りや門松をもちより、厄年の女が火打ちを寄進、子供たちは書道の作品などを作り、15メートルの柱に美しく飾り付けて、神官の大祓の後、代表の人が点火しどんど焼きをする。
寒中の火の行事で家内安全、無病息災。開運などを祈願する人達で賑わっている。
(現在、左義長は岡太神社境内の隣の花筺公園でとり行われている。)
この神事は2月9日(午前0時より7時まで)に行われる
貨幣交換の神事で、氏子は神社に参拝して小判を声高に
10万両、100万両と景気よく呼声をかけながら買う風習
で、小判購入の参詣者には中央に菊理媛、左右に恵比寿・大黒の両像の木彫の御札が配られることになっている。
参詣人は神前に商売繁盛を記念し、早速小判と御札を
我が家の神棚に供え、商売繁盛・家内安全を祈る習慣に
なっている。
この神事は寛弘5年(1008年)を始めとして今日まで1000年余り、連綿として継承されている古式ゆかしい神事であって、往昔は毎月2と7の日に市が開かれていたと伝わる。現在の二日市、本町は市にちなんだ町名である。
市祭りの翌日、2月10日は、当社の拝殿に木造「聖観音
立像」が安置される。
この仏像は大野郡の篠座神社より当社へ遷したと伝え
られており、均整美漂う慈愛に満ちたお姿が印象的である。
崇敬者は、当日午前0時~7時の時刻に参詣して、無病息災・家内安全・訴願成就を祈願する神事である。
参拝者には桃をかたどった縁起物の押し菓子が授与される。
徳日参りの起源は不明である。
「聖観音立像」平安時代の作と言われている 越前市指定文化財
迹王の餅 12日午前6時~全日 餅集荷
13日午前6時~7時 餅配布
大老賄膳 13日午前8時~
神輿渡御 13日午前11時~午後4時
子供神輿 13日午後1時30分~午後4時30分
浦安の舞 13日午後5時
子供太鼓 14日午後7時
権兵衛太鼓 14日午後7時30分
三里山山頂皇谷の地に、幹周り4.5㍍余り、幹の高さ9㍍余り、樹齢650年余り
を有し、昭和45年3月天然記念物として福井県の指定を受けた樹がある。
言い伝えによると男大迹王子は日頃から大変桜を寵愛されていたが、即位の
ため急に都へ上られることになり、粟田部の岡太神社に形見として遺して行かれた桜と伝わっている。
後に俗風に染まるのを畏れて人里まれな現在地に文亀2年(1503年)右野盛重によって植えかえられ皇子の遺跡として崇めるようになった。
この桜は皇子が在郷の時には紅色であったが、時とともに色が薄れ何時の頃か「薄墨桜」と呼ぶようになったと言われている。
※樹齢 600年 幹回り 4.5m 高さ 10m エドヒガン
現在の薄墨桜
現在は痛々しい姿ですが回復を待っています。
継体大王ゆかりの「薄墨桜」は、県の天然記念
物に指定されております。
平成24年3月 雪ため主枝が付け根から折損したため写
真のような姿になっています。
老木のためもありますが、近年の重い雪や豪雨により痛み
が進んでいる。
於:花筺公園
継体大王が即位前に暮らしていたとの言い伝えがある粟田部町。花筺公園の麓
に六角形の玉垣に囲まれた「皇子が池」があります。
この池は継体大王の子 安閑・宣化両天皇の産湯に使ったと言われる池で、近くでは県の「福井の美味しい水」に認定されている「皇子が池の水」が流れ出てい
る。
継体天皇にあやかり、名水(地下水)を利用する住民は多く、池周辺は地域の手で大切に守られている。
※現在 池の中の水は枯れていますが、地下水が汲み上げられている。
場所:花筐公園東側隣接の佐山姫公園
廷々左衛門 大王の近臣で佐山の地に居住していたが、後に今の服間村炭焼き移住した。その子孫は県社岡太神社の祭事には霊剣を奉じて供養するのを例としていた。
現在、境内に左衛門居跡に残存していた庭石2個を移し石標としその由を記している。
場所:岡太神社宝物殿前庭
謡曲「花筐」を後世に伝えるために宝生流17世宝生九郎の筆による花筐ゆかりの地碑が有志によって建立されています。
場所:花筐公園